2016年1月:信仰の働き
イエスは、重い病気を患っている友達のことを、そこまで心配している仲間の態度を『信仰深い態度』と断定します。
屋根を壊したり、話を中断させたりすることは常識はずれの態度のように思えますが、イエスはそう思いませんでした。イエスの判断基準は違うのでしょう。
そう言えば、これに似たようなことは教会にもよくあります。いつも静かにしている人々は良い人と見られがちで、いろいろな問題と関わっている人々に対しては批判が起こりやすいものです。
その後者に対して〝目立ちたがり家〟だとか〝混乱を起こす人〟と言われますが、『信仰深い人』とは言いません。
そんなことに出くわして、最近教会を訪れる人々が感じているこの種の問題にそれほど関心を示さなかった神父や信徒は、心地が良くなく、不安を感じるようになっていることは信仰の働きだと思います。
私たちの主イエスキリストは『目に見える生き方』として、信仰のうちに希望、愛をもたらし、人類はそれを見ました。
そしてイエスは、私たち人類の信仰を見ました。屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした人たちの信仰を見ました。
それと同時に、人々を絶望と不安、裁きに恐れおののかせる信仰、自分を見せびらかす偽善者の考えを見抜いたのです。
イエスを前にして、偽善者たちが自慢する信仰は、つぶやきと理屈に終始してしまいます。
信仰は見えなくなり、不信と反感、そして偽善があらわにされます。
振り返って、今の私たちの信仰はどうなのでしょうか…。
「あの人たちは確かに良いことをしているように見えるけど、人の迷惑を考えてもらわないとね」。「教会全体の〝和〟ということも考えて、筋をちゃんと通してもらわないと、皆から認められないね」などの声を耳にします。
教会はいったい、何をするところなのでしょう…。人々や社会に対して〝見えない偽善〟ではなく、共に希望、愛を育て実践する『見える信仰』の場として歩みたいものです。
2016年4月:ご復活 おめでとうございます
『あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい…。上にあるものに心を留め、地上のものに心を惹かれないようにしなさい。あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストとともに神のうちに隠されているのです』。
今の世の中、各自の個性が尊重され、多様化しているように見えるときがあります。果たして本当にそうなのでしょうか。たまに「ほかの人たちは…なのに、どうしてあなたは…なのですか」とか、「そこはひとつ皆に付き合って」などの発言に出会ったことがあります。
そこには、協調性、画一性を強調するあまり、異質なものを受け入れることをせず、排除する傾向が示されているのではないでしょうか。
私たちキリストを信じる者たちにとっても、世の習いに従わなくてはならない場合もあるでしょう。しかし、それに対して無批判に、盲目的に従ってはいけないと思います。
私たちの信じている信仰に照らして判断すべきでしょう。今、社会の中でキリストを信じる者であることを表明するのに、〝テレ〟や恥ずかしさを感じるときがあります。
しかし、譲ることのできないときは、十分に論議を尽くし、自らの価値観(キリストの心)を主張すべきでしょう。
『新しいぶどう酒』とは今の私にとって、『人々との深い関わりの中に生きなさい』というイエスの声が聞こえて来ます。
『わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい』というみ言葉が、繰り返し私の心の中に注ぎ込まれて来ます。
私の『新しい皮袋』は、とても小さいように思います。イエスの望まれることが入りきらないのです。そして残念なことに『古い皮袋』も、しっかり持っています。
私の中にある自尊心、頑固、虚栄心、自己中心主義、形式主義、世間体を重んじる心…などがそれです。
せっかくイエスから新しい命、新しいぶどう酒をもらったのに、それを自分に生かし切れていません。教会で修道院で、本当の自分の行き方を表すことが十分にできていないと思います。
世間の目を気にして、いただいた恵みを薄めたり弱めたりしているのです。自分を守るために、古いぶどう酒をまだしっかり持っているのです。
「主よ、1日も早く私の持っている古い皮袋を捨てて、新しい皮袋に新しいぶどう酒をいっぱい注ぎ込むことができる力を与えてください」。
2016年6月:近くて遠い方
『聖霊来てください』とか、『わたしたちの上に降りて来てください』とか、何か意識的のうちに聖霊に向かうとき、実は無意識のうちに聖霊はどこか遠いところにおられる方のように思い込んでいるような気がします。特に、上から降りて来られるというようなイメージを文字通りに解釈してしまっています。
どうして、聖霊をこのように、自分から離れておられる方、呼んだときにしか来てくださらない方のように考えてしまったのでしょうか。ここで、聖霊が聖書の中でどのように描かれているのか、少し調べてみました。
旧約聖書では、厳密な意味で聖霊という捉え方をしていませんが、たとえば次のような描写があります。
『サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。…こうして…主の霊はサウルから離れ…』とあります(サムエル記上・16 ・13─14)。
イメージとしては、外から来て、また去っていかれる方です。しかし、イエスご自身のお言葉によれば、実に違ったイメージが示されています。
『この方は、心理の霊である。あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである』(ヨハネ14.17)。
だから明らかに、外からあるいは上から降りてくる方ではなくて、すでに信仰の恵みに生きる私たちの中に、住んでおられる方なのです。
パウロの表現はさらに明確です。『あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿っていてくださる住まいである』(1コリント6・19)。従って、外から呼び寄せる方ではなく、既に私たちの中におられる方なのです。
ここで大切なのは、この既に私たちと共におられ、とても身近な方にどのように従うかです。
「聖霊に導かれる」とは、一体どういう体験を言うのでしょうか。あまりにも身近な方なので、つい忘れたり、無視したり、無下にしているように思われます。
だから、ときどき、意識的に聖霊に心を開いて、素直に「従います」という決意を新たにする必要があります。
年とともに頑固になるのではなく、ますます聖霊の思いの中に生きることが出来れば幸せだと思います。
「50にして天命を知る」とありますが、私の場合、聖霊の導きにより一層素直に従うことが無理なく出来るようになればと願っています。とにかく『霊の姿にかえられる』(Ⅱコリント3・18)まで、歩み続けたいものです。
2016年9月:いつくしみ深く 御父のように
『自分を愛してくれるものを愛したからと言って、何の報いがあろうか。そんなことは、徴税人でさえもするではないか。自分の兄弟にあいさつしたからといって、何か特別なことをしたのだろうか。異邦人でさえも、そうするではないか』。
今年2016年は『いつくしみの特別聖年』です。個人的に、実際的に、私たちは、何をどのようにしているでしょうか…。
年間第22主日の福音にこの言葉がありました。キリストは『宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい…」(ルカ14 ・13)とおっしゃいます。これは物質的、外観的な意味ではなく、精神的な意味をもっています。すなわち、私たちは広い心をもって、恵まれていない人々を迎えなさい、と強調されています 。
人間は誰でも好き嫌いがあります。気に入る人もいれば、気に入らない人もいます。これは自然です。しかし、私たちに諭されることは、もう1歩進んでそれらのことを乗り越え、その人々こそを迎え入れるようにと…。
キリストが両腕を広げられたように、私たちも両腕を広げていつも兄弟たちを心から迎えなさいということなのです。特に恵まれない人々を。
キリストご自身も、人生として、自然に罪びとに対していやな気持ちを感じられたのではないかと思います。それにもかかわらず、キリストはその一時的な反発を乗り越えて、心から人々を罪人たちをお迎えになりました。
姦通の罪で捕らえられた女、7つの悪霊にとらわれていた人など、キリストは心からお迎えになりました。聖書は、このような話を数多く伝えています。
キリストの言葉(福音)は、味わい深いものです。私たちは狭い範囲で人を判断したり、決め付けたりしないように。
キリストの一番弟子であったパウロは、かつてキリストを迫害しました。そのうえステファノとの間に悲劇もありました。そういう訳で、パウロは回心した後も、ほかの弟子たちから冷たく見られました。『この人はアナニアから洗礼を受けたけれども、ステファノ殺しにも加担していた』と。
パウロは、いつもその寂しさを感じていましたが、キリストの弟子の1人のバルナバは、そのような過去を取り立てず、心からパウロを迎えました。パウロはその温かい心と言葉を感じたときに喜んでその持てるすべての力を生かしたのです。
日ごろ、私たちが歩む人生の道の両側には、倒れて救いを求めている人、ひとつの温かい言葉を求めている人、理解を求めている人が、ともすると見過ごしてしまうほど大勢いるのです。一人一人の心の中にこれらの人々を迎え入れることができますように。
「人々を分け隔てなく、温かく迎え入れること」…それは、救い主のいつくしみの泉へと優しく招き入れることです。その泉とは教会です。キリストを信じる私たちが、それを行動で表していくこと、神から恵まれたいつくしみを具体的なしるしを通して証しすることです。
ノーベル平和賞を受けたドミニックピールはいつも繰り返し「なぜ、私たちの心はある人に対して冷たいのでしょうか。人を見るときに一番気になり、目に付くのは自分の相違点です。しかし、意外と共通点も多いのです。共通点を見出すようになれば、人々を心から迎えられるでしょう」と。
人間の体がそれぞれの働きと協力で成り立っているように、私たちの心も違った部分の色によってより豊に成長したいものです。
広い心、迎える心、一歩進んで、キリスト的ないつくしみの心をもって周りの人々を温かく迎え入れることができるよう祈り求めましょう。