新旧のカレンダーを取り換えるとき、ふと思ったことですが、〝忘年会〟という言葉は、あまり好きではありません。
過ぎ去った「年」のことを全部忘れてもいいのでしょうか…?去年1年を振り返って、いろいろ考えてみることも、この新しい1年に向けてとても大切なことだと思います。
1年に限らず、1日を振り返って反省するときもそうですが、反省というと何よりもまず、今日1日の間にやってしまった失敗をいろいろ数え立てて「あんな悪いことをしてしまった」「こんな罪を犯した」と考えるのではないでしょうか。
もちろん自分の失敗を思い起こすことは大切です。でもそうやって自分の失敗ばかりを考えることが、果たして本当に良いことなのでしょうか。
皆さん、今日1日を振り返えるとき、今日、することのできたいいことも考えてみましょう。
そのいいことの一つ一つが、何か小さな当たり前のこと、数えるにも値しない、つまらないことのように思えるかも知れません。よほど大きな、それこそ死にかけている人を救ったというような出来事でもない限り、何か特別に「今日はいいことをした」などとは思わないのが普通でしょう。
でも、果たして、私たちが実行することができたいいことの一つ一つは、私たちが自分の力だけでやれたことなのでしょうか。
「自分の力だけでやった」と考えてしまえば、つまらない出来事のようにしか思えないかも知れません。
日々の生活の中で、私たちが実行することのできたいいこと、たとえそれが小さなことであったとしても、その一つ一つは「自分の力だけでやった」のではなくて「神が私のうちに働いて下さった」からできた、のではないでしょうか。
そうだとしたら、「神はこんなちっぽけな、つまらないことしかしてくれないのですよ」などと不平不満が言えるでしょうか。いや、よくよく考えてみて、そんなことはとても言えないでしょう。
そうです。私たちの生活は、その隅々まで、神の恵みに満たされているのです。朝起きて「お早う」とにっこり微笑む。そんな一見つまらない出来事でさえ、神が働いて下さったおかげでできたのだと考えるなら、私たちの1日が神に守られ、恵みに満ち満ちたものだと気付くことができるでしょう。
去年1年、神が私たちのうちに働いて、どれほどのいいことをさせて下さったか、年の初めに考えてみましょう。その泉のように溢れる恵みをしみじみと味わいながら、過ぎ去った1年に感謝し、明けた2015年が素晴らしい年でありますように、希望に満ちた願いを祈りたいものです。
私たちは、よく「現実的」という言葉を使います。「それは現実的でない」とか「君の考えは非現実的だ」とか。私たちは日々の生活が現実の上に成り立っていることを、十分過ぎるぐらい知っているのです。
お金がなくなれば、明日からの生活に困ることが実際に分かっています。病気になれば、医者が必要だということを知っています。子どもが勉強をしなければ、親の願いが果たせないという現実もあります。
日々の生活において、現実的な対処がいかに必要であるか、私たちは体験において学んでいます。しかし、人間にとって現実的なものが全てではありません。現実的である、ということが全てであれば、真実を見失うことになります。 人々は善意とか、柔和とか、謙遜といったことを現実的でないということがあります。例えば、武力の前に非暴力といったことはどうでしょう。
あの非暴力を徹底したガンジー氏もキング牧師も、確かに暴力という力の前に倒れました。
しかし、非暴力が現実的でないということで、力に対して力を持って戦おうとすれば、結局、平和はいつまでたっても訪れないのだということを歴史は物語っています。
だからこそイエスは『柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ』(マタイ5・5)と言ったのでしょう。地を受け継ぐ(支配する)者、それは今、まさに力ある者こそが地を受け継がなければ、本当の平和は訪れないのだということではないでしょうか。
人々は確かに力の前に力で対応することが現実的と思っています。しかし、その現実的な対応は真実ではありません。そう言った意味で現実的であることは、ときに真実性を排除してしまうのです。
人間にとって真実なもの、それは現実的でない部分に属していることが多いのです。
愛であるとか、思いやりであるとか、あるいは信仰であるとか、希望であるとか、そういったものは、ときに極めて非現実的であり、私たちはまま、そういったものを選ばずに、現実的なものを追い求めてしまうのです。でも、やはり一番大切なものは現実的でない部分に属しているのではないでしょうか。
神の聖霊も、やはり現実的でないと思われている部分に働きかけているに違いありません。
福音に読まれるファリサイ派の人の祈りを冷静な気持ちで読みますと、ひどく高慢な祈りだと思います。
そう感じるのは、ルカ自身が「自分を正しい人だと信じ、他人をさげすむ人」という「コメント」をつけていることに大きく左右されていると思われます。
さらに、「私はほかの人たちのように」と言って、他人と比較して自分を誇っているように聞こえるのも気になります。
しかし今、評論家になっている読者の立場を捨てて、当時の状況の中でこの人の祈りを聞いたとしたら、どうなるのでしょう。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、ユダヤの社会において自他共に認める、神の律法を受けている民の指導者です。
周りの人に尊敬される身分です。ですから、罪を犯さないばかりか、律法をしっかり守り、寛大に自分を捧げています。
彼らは現在の自分の身分を神に報告し感謝しているのですから、これは彼らなりに素晴らしい祈りだと思っているのではないでしょうか。
しかも、誰もが彼らのことを認めているのです。それがだめだと言われるのなら、いったい誰が正しいと言うのでしょう。
正直言って私は、イエスに〝槍玉〟に挙げられているこのファリサイ派の人が、たとえ話の中の人物だったのに、ほっとしています。 また同時に、イエスを信じる者の一人として、「今、生きている」中味を、常に点検するように促されていることに気づかされます。
人はそれぞれの考えを持っていますし、社会には「常識」という判断の基準があります。
そして多くの場合、常識的な人は社会に歓迎され、そうでない人は、いとも簡単に、変人、悪人のようにみなされがちです。
常識と言われているものが、本当の判断の基準ではないと思っている人においてでも、多かれ少なかれ同じ傾向があるように思われてなりません。
私たちは聖書の言葉を聞くときに「そうだ」「なるほど」とうなずきながら聞いています。しかし、多くの場合、うなずけるのは「非現実」の中で聞いているからではないかと思われるのです。
現実をイエスの目と心で見ようとする時、福音を生きることの困難さと、「生かされている」ことの重みと喜びを本当に感じ取れるのでしょう。
日本の習慣を思うとき、8月は〝死者の月〟といえるでしょうね。
数年前に中央協議会から出た小冊子「祖先と死者についてのカトリック信者の手引き」はカトリック教会の中だけではなく、他宗派キリスト教会、そして仏教などの他宗教の間にも、予想外の大きな反響を呼び起こしました。
今更のように、この問題が日本人の大きな関心事であり、その一方で多くの課題を抱えていることを物語っています。(この小冊子は大変、参考になります。まだ読んでいない方はこの機会にぜひ、目を通してください)。
今、私たちは「日本の福音化」と言う課題に取り組んでいますが、この問題こそ日本人にとって決して避けて通ることのできない重要課題であると言えましょう。
考えてみれば、日本人は有史以来、先祖の祀りを大切にしてきました。日本固有の宗教である神道は、この私たちの祖先の祀りと不可分に結びついています。
中国、朝鮮半島を経て、日本にもたらされた仏教は、元来は死者儀礼とは全く無縁の宗教でありました。それに、神道の伝統と民族信仰に影響されてすっかり日本化されてしまい、葬式や法事を行うようになり、僧侶の主な仕事は死者儀礼となってしまったのです。
その状態は今日まで続いています。識者の間に、これではいけないと言う声がないわけではありませんが、大勢を動かすまでには至っていないようです。
そこでややもすれば、僧侶の生活が死者儀礼の謝礼に依存してしまうので、本来の宗教者としての生き方が問われていると言えましょう。
しかし、他宗教のことを言うまえに・・・考えてみれば、我がカトリック教会のあり方も、その点は似てないとは言えないでしょう。
司祭はしばしば依頼されて特定の死者のための意向でミサを捧げます。それは長く続いてきた教会の伝統です。
死者のために祈るという伝統は素晴らしいことですが、司祭に依頼されるミサの『意向』の大部分は死者のためである、というのはどういうことでしょうか。
お葬式をする、追悼ミサをするということの意味はどこにあるのでしょうか。
単なる習慣や儀式、呪術(呪い)ではない、「何か」深い意味があるはずです。私たちは死者との強い繋がりを意識しています。
問題は死者との繋がりにおいて、これから私たちがいかに生きていくべきか?ということではないでしょうか。
死者の問題はすなわち生者の問題です。『神は死者の神ではなく、生きている者の神である』(ルカ20・38)というキリストの言葉をもう一度味わってみたいものです。
新しい『ミサ総則』変更箇所の留意事項
〈特に信者に関係する主な部分〉
【沈黙について】
祭儀そのものの前にも、聖なる行為が敬虔にかつ正しく行われるためにすべてが整えられるよう、教会堂、祭具室(香部屋)、準備室とそれに隣接する場所では、沈黙が正しく守られなければならない。
【ことばの典礼における沈黙】
この沈黙は、たとえば、ことばの典礼が始まる前、第1朗読と第2朗読の後、そして説教が終わって適宜とることができる。
*…日本では、(第1)朗読の後、一同はしばらく沈黙のうちに神のことばを味わう。
*…(第2朗読の後)、日本では、一同はしばらく沈黙のうちに神のことばを味わう。
【注】松山教会では『ミサ総則』(暫定版)に従い、第1と第2朗読の最後に、朗読者が「神のみことば」と告げ、信者(会衆)が「神に感謝」と応唱していますが、待降節第1主日からそれをやめて、朗読の後、そのましばらく沈黙し、みことばを心深く味わいましょう。
【聖別のとき】
日本では、聖別のとき、信者(会衆)は立ったまま手を合わせ、聖別の後、司祭ならびに助祭とともに深く礼をしなければならない。
同一の祭儀において動作と姿勢の統一を得るために、信者は、ミサ典礼書に定められたことに則って、助祭、信徒の奉仕者、あるいは司祭が述べる指示に従うようにする。
主日を中心として私たちが招かれ、あずかるミサは「教会活動が目指す頂点」であり「教会のあらゆる力が流れ出る源泉」(典礼憲章7・10)だと強調されています。そのミサの進行を整え、正しく解説し、導いてくれるのが『ローマ・ミサ典礼書の総則』(以下、ミサ総則)です。
この6月15日、「新しい『ミサ総則』に基づく変更箇所」を綴った小冊子が日本カトリック中央協議会から発行されました。私たちの教会でも配布しましたが、冊数に限りがあり、十分に行き渡っていないと思われます。
実はこの『ミサ総則』と直接関係のある「ミサの式次第」について、典礼秘跡省からまだ正式な認証が得られていない、とのことです。
しかしながら、日本カトリック司教協議会は、今年2月の臨時司教総会で、先に認証された改訂訳の中で、早期に実施しても大きな混乱を招かないとみられる変更箇所については、早めに慣れておくことが望ましいと判断。変更箇所を今年11月29日(待降節第1主日)から日本の教会で実施するよう認可しました。
新たに実施するのは、主にミサ全体に関連する規則と、原則として司式司祭と共同司式司祭に関する姿勢・動作・ことば使いの変更に伴う適応が中心です。助祭、奉仕者(侍者)を含めて内陣に関わるところが多く、信者(会衆)は、変更部分にそれほど気付かないかも知れません。
典礼に参加する一つの要素として位置付けられているのが「沈黙」です。守るべき沈黙は、行動的参加としての「聖なる沈黙」(典礼憲章30)と呼ばれ、祭儀のどの部分で沈黙が重要か、それぞれの場で目的や意味合いが異なります。私たちの教会でも「沈黙」には気を配って来ました。ミサが始まる前と、ミサの中では①回心の祈りに続く祈願への招きの後、沈黙して良心と向き合う②朗読、説教の後、聴いたことばを短く黙想する③拝領後は沈黙して、心深く神を賛美する―こと。それらがきちんと守れるよう求められています。
その他信者に関わる細部の変更箇所として、典礼委員には祭壇の装飾や司祭の祭服などを含む「ミサの準備」、オルガンなど楽器使用に関係するところ、侍者は司式司祭の動きに対応して内陣での姿勢・動作が伴います。それぞれの奉仕者の間で事前に読み深め、確認し合ってほしいと思います。
生き生きとして「心の琴線に触れるミサ」が私たちの目指すところです。そのためには司式司祭・共同司式司祭と信者が「キリストの愛によって、強くひとつに結ばれること」から始まります。一人一人が意識的、行動的に参加して、豊かな実りを得られるよう心して励みましょう。