2012年2月 :神の愛のことば
信仰ということは、神様と私たちとの交わりです。
それは神様が私たちに話しかけ、呼びかけてくださって生まれるもので、私たちの力で生み出すことの出来るものではありません。
ですから、信仰の土台は、まず神様の語りかけに耳を傾け、従順な心でその語りかけに答えることから始まります。
神様の呼びかけは聞く耳さえ持てば、日常生活の至るところで聞き取ることが出来るでしょうが、まず何よりもその中心、基礎となるのは、み言葉=聖書によってです。聖書は歴史の中で、そして特に生ける神のみ言葉であるイエスキリストにおいて語りかける神の愛の呼びかけです。
この神のみ言葉である聖書に耳を傾けることは、信仰、祈り、礼拝(ミサ)に欠くべからざる大切な行いです。
祈りは神との語り合い、会話ですから、神のみ言葉を聞くことが大切なのは当然なのですが、私たちの祈りはともすると、一方的なおしゃべりになってしまう危険があります。聞くことを忘れた祈りは、薄っぺらな自己中心的な祈りになりがちです。
教会共同体の礼拝であり、信仰の表現である聖体祭儀(ミサ)も、まず『み言葉を聞く』ことから始まります。
旧約聖書、使徒書、福音書の朗読によって、神の救いのみ言葉が宣言され、救いの計画を通して神が私たちのために実現してくださった恵みの出来事が思い起こされます。
それを通して、今もまた神が私たちに、その恵みの力ある言葉を語りかけてくださるのです。
『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む』(ヨハネ14 ・23 )
こうして救いが実現され、その救いの言葉を宣言してくださる神の語りかけに答えて、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、キリストの死と復活の記念を行います。このように、み言葉の典礼は一体となって、聖体祭儀を形づくっています。
神のみ言葉を心深く聞くためには、やはり準備することが大切です。
よく聖書朗読の途中あたりで、ミサに遅れて来る人もいますが、その意味では半分しかミサに参加していないようなものです。
神のみ言葉を落ち着いて、祈りのうちに味わうように心がけたいものです。
また、朗読をする人も神のみ言葉がはっきり伝えられ、人の心にしみ込むように、よく準備して、聞きやすく朗読する大きな責任があるのです。
それは神様が私たちに話しかけ、呼びかけてくださって生まれるもので、私たちの力で生み出すことの出来るものではありません。
ですから、信仰の土台は、まず神様の語りかけに耳を傾け、従順な心でその語りかけに答えることから始まります。
神様の呼びかけは聞く耳さえ持てば、日常生活の至るところで聞き取ることが出来るでしょうが、まず何よりもその中心、基礎となるのは、み言葉=聖書によってです。聖書は歴史の中で、そして特に生ける神のみ言葉であるイエスキリストにおいて語りかける神の愛の呼びかけです。
この神のみ言葉である聖書に耳を傾けることは、信仰、祈り、礼拝(ミサ)に欠くべからざる大切な行いです。
祈りは神との語り合い、会話ですから、神のみ言葉を聞くことが大切なのは当然なのですが、私たちの祈りはともすると、一方的なおしゃべりになってしまう危険があります。聞くことを忘れた祈りは、薄っぺらな自己中心的な祈りになりがちです。
教会共同体の礼拝であり、信仰の表現である聖体祭儀(ミサ)も、まず『み言葉を聞く』ことから始まります。
旧約聖書、使徒書、福音書の朗読によって、神の救いのみ言葉が宣言され、救いの計画を通して神が私たちのために実現してくださった恵みの出来事が思い起こされます。
それを通して、今もまた神が私たちに、その恵みの力ある言葉を語りかけてくださるのです。
『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む』(ヨハネ14 ・23 )
こうして救いが実現され、その救いの言葉を宣言してくださる神の語りかけに答えて、私たちは賛美と感謝の祈りを捧げ、キリストの死と復活の記念を行います。このように、み言葉の典礼は一体となって、聖体祭儀を形づくっています。
神のみ言葉を心深く聞くためには、やはり準備することが大切です。
よく聖書朗読の途中あたりで、ミサに遅れて来る人もいますが、その意味では半分しかミサに参加していないようなものです。
神のみ言葉を落ち着いて、祈りのうちに味わうように心がけたいものです。
また、朗読をする人も神のみ言葉がはっきり伝えられ、人の心にしみ込むように、よく準備して、聞きやすく朗読する大きな責任があるのです。
2012年4月:ご復活おめでとうございます典礼憲章に基づく刷新<4>
キリストは いつも共におられる
キリストは いつも共におられる
復活されたキリストは、偉大なわざを成し遂げられるために、常に私たちの教会、私たちの信仰生活の中に、共におられます。ミサの犠牲のうちに、ご聖体とともに、また諸秘跡のうちに……。かつては十字架上でご自身を捧げられたキリストが、今日も、司祭の奉仕によって、司祭のうちにおられるのです。
『聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである』 (典礼憲章第1章・7項)。
この言葉は、復活されたキリストを最も身近に感じます。
そして『主は 皆さんとともに』という呼び掛けに答えて、心の琴線に触れる典礼へと招かれ、神の愛のうちに、キリストに出会って、新しい命に与っているという意識を大切にしたいと思います。
ですから典礼が儀式のようになってしまうと、日常生活と切り離されて、別世界の行為になりがちですが、そうであっては困ります。
公会議は「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る泉である」と述べていますが、言い換えますと、「私たちの日常生活が目指す頂点であり、日常生活の力が流れ出る泉」とも言えます。
つまり、私たちは洗礼によって、預言者・王大祭司であるキリストと結ばれ、世界を聖化し、御父に結ばれるために、ご自身を捧げられたキリストの使命を受け継ぎました。私たちの毎日の「1分、1秒」は、言葉と行いで神の国を証しし、その実現のために奉仕し、生活の奉献と祈りによって世界の聖化のために働く生活となったのです。
この毎日の私たちの生活、失敗も数多くありますが、小さな祈りと働きを捧げる日常生活は、典礼の中で永遠の大祭司キリストのみわざに結ばれます。
世界の救いの秘跡によって、あまねく世界を聖化し、神の国をもたらすキリストの恵みによって、私たちの日常生活を新たにしていかねばなりません。
典礼において私たちの生活は、〝みじめな罪びと〟の〝取るに足らない″祈りと働きから、キリストのからだの働きに変えられ、真に意味と価値のある生活となるのです。
その意味で、「典礼は私たちの生活の頂点」と言うべきでしょう。
同時にキリストの恵みをもたらす典礼において、弱い私たち一人一人の生活をキリストと共に、キリストによって生きる力が与えられ、日常生活の十字架に喜びと希望をもって進んでいく恵みが与えられるのです。
つまり「典礼は、あらゆる力が流れ出る泉でもある」と言われるゆえんです。
教会の宣教司牧活動は、すべて典礼と深く結びついています。だからこそ典礼が本当に生き生きとした信仰の表現であり、日常生活がより豊かな恵みの場となり、ひいては『出会う人に よい知らせを』伝える〝力がわき出る泉〟でもあるように努めたいものです。 (続く)
2012年6月:ミサの準備(予習)
復近、教会の中で「勉強会」、「研修会」、「集まり」、「定例会」などなど多いのではないでしょうか?本当に、このような〝勉強会〟で、霊的な生活のために意味があるのでしょうか…。
洗礼を受けるまでは「神父さまの話」(勉強?)などに通って熱心に勉強?したが、信者になってからは何とかミサに出席しているだけで、久しくキリスト教の勉強?をしていない、そう思っている人が案外多いのではないでしょうか。同じことが幼児洗礼の人ならば、子どもの頃は教会学校で勉強したが、おとなになってからはミサに出席するだけで…ということになるのでしょう。
しかし皆さん、ミサは勉強?と無縁な単なる儀式ではなく、実は、信仰を深めていくための研修の場でもあるのです。
その証拠に、ミサにはちゃんと「カリキュラム」があります。
毎週主日のミサで朗読される聖書は、3年間でひと回りするよう配分されていますが、この〝朗読配分〟が「カリキュラム」なのです。信者一人一人が、そして教会全体が信仰を深めていくための「カリキュラム」なのです。
このカリキュラムに基づく聖書朗読と説教を毎週聞きながら、長いことキリスト教の勉強?をしていないと思っている人が多いのはなぜでしょうか。おそらくその最大の原因は、準備なしに、すなわち予習なしで、皆がミサに集まるからだと思います。
ミサの聖書朗読は入念に選ばれており、深い内容をもっていますが、準備なしに、いきなりミサの時に聞いてもなかなか分かりません。
聖書全体に、かなり通じていることが、全体となって「カリキュラム」ができているからです。聖書にあまり通じていない私たちにとって、あらかじめ朗読箇所の準備(予習)をするのは当然のことになってきます。理想を言えば、予習よりも復習に力を入れるべきかもしれません。
主日に聞いた神の言葉に従って、それからの1週間を生きるというのは望ましい姿だからです。
しかし、聖書に関する私たちの現状から言って、当分は準備(予習)に力を入れるべきではないでしょうか。
司式司祭の説教の準備だけに頼るのではなく、教会を挙げて〝ミサの予習運動〟に取り組む必要があります。
そのために「聖書と典礼」を、むしろ予習用の〝パンフレット〟として利用してほしいと願っています。それも「お持ち帰り下さい」。なぜかと言いますと、自分の家でときたま使ったら、益になります。福音宣教のために使うことも出来ます。
十分に予習しておくと、ミサのときはもう「聖書と典礼を見る必要がない」…そうなったら、どんなにかミサは充実することでしょう。
2012年9月:羊と羊飼い
羊を飼っている様子は、日本人にとってあまりなじみ深いものではありません。私はこの夏、休暇でスペインへ帰っていて、その風景をよく見かけました。
イエスの時代、ユダヤで羊は、ごく身近な動物だったようです。日本人は、牧畜というと、なんとなくオーストラリアやニュージーランドなどで行われているような、広々とした牧草に数千匹の羊を放牧している風景を思い起こすのではないでしょうか。
しかし、聖書に書かれている羊の飼い方はもっと違ったもののようです。せいぜい50匹から200匹の羊を一つの群れとして、それに3人の羊飼いがつき、羊たちを水飲み場へ連れて行ったり、草のたくさんあるところを探しながら、羊の群れを導きました。
羊飼いは、たいてい羊の持ち主の子どもがすることが多かったようです。羊は彼らにとって大切な財産でしたし、とてもかわいがって育てていました。1匹1匹にそれぞれ名前をつけて呼ぶほどでした。また羊の方も羊飼いに良くなついていて、その言うことをよく聞いたのです。
このような間柄でしたから、聖書の中に羊と羊飼いの関係を「神と民」「指導者と民」といった意味に使ったたとえ話が幾つか出てきます。
旧約聖書では、悪い牧者のたとえ(エレミヤ23・1)、また悪い牧者と良い牧者(エゼキエル34・1)、良い牧者(詩篇23)などがあります。
新約聖書でも、失われた羊を探す牧者の姿(ルカ15・4)、羊と羊飼いの深い結びつき(ヨハネ10)などがあります。
イエスが羊と羊飼いのたとえを用いて話されるとき、羊は、ただ役に立つ動物であるばかりでなく、飼い主は1匹1匹の羊をそれぞれ知っていて、自分の家族か子供のように大切に守り、かわいがるのです。一方羊は、羊飼いを信頼し、安心しきって自分を任せ従って生きる姿です。
これらのたとえは、神が私たちを〝人間たち〟と言った十把ひとからげの見方ではなく、私たち一人一人のことを良く知っておられ、それぞれを心にかけて、かわいがり、慈しみ深く愛しておられるのだということを教えています。
ちょうど、例え子どもが何人いても親にとってはどの子もかわいいのと同じことなのです。
牧者は、特に迷った羊、教会から離れている羊をいつも気に掛け、とこしえに愛しています。この優しい羊飼い(キリスト)は、いつも両腕を広げ、いつの日か帰ってくるのを待ち続けているのです。
2012年11月:広い心・・・みんな兄弟
悪霊を追放することは、人間の力で出来ることではありません。イエスの力が必要です。″イエスの名によって〟とか〝イエスの名をつかって〟とか言う表現は、そのことを指しています。
ある人がイエスの名を使って悪霊を追い出していました。それを見た弟子たちは「自分たちについて来ない」(マルコ)という理由で、あるいは「自分たちと一緒に主について来ない」(ルカ)という理由で止めさせようとしました。
『やめさせてはならない』とイエスは言われたのです。なぜなら、イエスの名を使って善を行うということは、イエスの力の影響下にあることを意味し、何らかのかたちでイエスに属するものとなっているからです。例え本人がイエスの信仰と帰依とを明確に自覚していない場合にもです。
ルカによる福音にも並行箇所があります。
『そこでヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」。イエスは言われた。やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方なのである』(ルカ9・49-50)。
さらにもう一つ。これとは合わないような主の言葉もあるのです。
『わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている』(ルカ11・23)。
でも文派が違っています。悪魔を追い出しておられるイエスを見て「悪魔の力で悪魔を追い出しているのだ」などと言う人々と、かたくなな心の持ち主、不信の、いや悪意の人々に向けられた言葉なのです。
それに引き換え福音の言葉は、イエスとその弟子たちに『反対しない人々』に向けられています。そういう人々が〝味方〟であると言っています。
これは明るく、素晴らしく、ありがたいメッセージではないでしょうか。教会に目に見えるかたちで属していない人々をも、イエスの大きな愛と恵みが包み込んで、味方にしているのですから……。
使徒パウロの、あの言葉が思い出されます。
『ねたみと争いという動機であれ,善意の故であれ、キリスト(ただし、歪められた虚偽のキリスト像であってはならない)』が告げ知らされているのですから、わたしは喜びます』(フリッピ1・8)。