2009年2月 : 典礼憲章に基づく刷新 <2>
典礼は教会共同体の礼拝
中世以来、典礼は次第に民衆から遊離して多くの人々に理解できない、聖職者の独占物のようになってしまいました。特に一般の人には分かりにくいラテン語が用いられたためです。
ミサは主の晩餐の記念としてみんなで分かち合う祝いの食卓という面より、司祭によって生贄を捧げる祭壇という面が強調され、中央に置かれていた食卓は壁にくっつけられ、至聖所(サンタ・サントルーム)という特別な場所が作られて、司祭以外の一般の人は入れなくなりました。
ご聖体もキリストの命を分かち合う一致のしるしとしてよりも、目で見て礼拝する対象として考えられるようになりました。
こうしてミサは司祭が捧げ、信徒はそれに列席するだけという感じになり、共同体の行為というより、司祭だけの行為みたいになっていました。
典礼が生き生きとした人々の参加よりも、美しく荘厳な儀式であることが重視され、儀式についての大変細かい規則がたくさん作られました。
しかし公会議は、典礼が本来、司祭と信徒を含めた教会共同体全体がキリストとともに捧げる礼拝であることを強調します。
典礼は聖職者の独壇場でもなければ、個人的な祈りの場でもありません。それはいろいろな機関がそれぞれの役割を分担しながら、一つに結ばれている(キリストの)体全体の公的な礼拝行為なのです。
それゆえ公会議は、典礼における信徒の行動的、積極的参加を重視し、ともに奉仕し合うように勧めます。
朗読や先唱などは元来信徒の積極的参加の場であったのに、聖職者の独占となってしまっていたのですが、このような種々の役割を信徒の受け持ちとし、歌や祈りにも信徒全体がともに加わるように励まします。
また壁向きになっていた祭壇は、初代教会の伝統に従って、みんなで囲む食卓のしるしとして対面式になりました。「主は皆さんとともに」という呼びかけでも分かるように、信徒は奉仕し合う感謝の祭儀を通して新たな活力に与(あずか)り、ともに捧げるミサの意義が体験できるようになりました。
また規則ずくめ、儀式化してしまった典礼が、教会共同体の生き生きとした、自発的な賛美の場となるように、多様性と自由な適用の可能性を広げました。
「ミサ典礼書の総則」に適応
共 同 祈 願
共同祈願について私たちの教会は昨年9月から、通常は選ばれた先唱者の一人が、洗礼盤側・内陣下の「解説台」から、会衆に向かって意向を告げるように改めました。
それまでは長い間、意向ごとに4人が会衆席から正面に向かって告げていましたが,「ローマ・ミサ典礼書の総則」に従って、それにふさわしく適応させたものです。同総則の71番および138番は、次のように説明しています。
「自席から祈願を指導するのは司式司祭の役割である。(中略)告げられる意向は偏りのないもので、よく考えて自由に,簡潔な言葉で作られ,共同体の願いを表明するようにすべきである。意向は朗読台あるいは他のふさわしい場所から会衆に向かって、助祭あるいは先唱者、もしくは朗読者か信徒の一人によって告げられる」。
少し"おさらい"をしますと「共同祈願」すなわち「信者の祈り」は、ミサの中で耳を傾けたみ言葉と説教に答え、洗礼によって自分の祭司職の務めを実行し、すべての人の救いのために祈りを捧げるものです。典礼憲章の第2章「聖体の聖なる秘儀」の53番には「嘆願」という言葉が使われています。
その嘆願の祈りの意向は、通常、次の順序で行われます。
1.聖なる教会のため
2.国政にたずさわる人々と全世界の救いのため
3.種々の困難に悩む人々のため
4.私たちの教会共同体のため
3番目までは主に「聖書と典礼」のパンフレットから引用し、4番目はその主日の当番の先唱者が作った祈願を唱えています。
ただし、堅信、結婚、葬儀など特別な祭儀においては,それらの祭儀にふさわしい意向によって嘆願の祈りを捧げています。
中世以来、典礼は次第に民衆から遊離して多くの人々に理解できない、聖職者の独占物のようになってしまいました。特に一般の人には分かりにくいラテン語が用いられたためです。
ミサは主の晩餐の記念としてみんなで分かち合う祝いの食卓という面より、司祭によって生贄を捧げる祭壇という面が強調され、中央に置かれていた食卓は壁にくっつけられ、至聖所(サンタ・サントルーム)という特別な場所が作られて、司祭以外の一般の人は入れなくなりました。
ご聖体もキリストの命を分かち合う一致のしるしとしてよりも、目で見て礼拝する対象として考えられるようになりました。
こうしてミサは司祭が捧げ、信徒はそれに列席するだけという感じになり、共同体の行為というより、司祭だけの行為みたいになっていました。
典礼が生き生きとした人々の参加よりも、美しく荘厳な儀式であることが重視され、儀式についての大変細かい規則がたくさん作られました。
しかし公会議は、典礼が本来、司祭と信徒を含めた教会共同体全体がキリストとともに捧げる礼拝であることを強調します。
典礼は聖職者の独壇場でもなければ、個人的な祈りの場でもありません。それはいろいろな機関がそれぞれの役割を分担しながら、一つに結ばれている(キリストの)体全体の公的な礼拝行為なのです。
それゆえ公会議は、典礼における信徒の行動的、積極的参加を重視し、ともに奉仕し合うように勧めます。
朗読や先唱などは元来信徒の積極的参加の場であったのに、聖職者の独占となってしまっていたのですが、このような種々の役割を信徒の受け持ちとし、歌や祈りにも信徒全体がともに加わるように励まします。
また壁向きになっていた祭壇は、初代教会の伝統に従って、みんなで囲む食卓のしるしとして対面式になりました。「主は皆さんとともに」という呼びかけでも分かるように、信徒は奉仕し合う感謝の祭儀を通して新たな活力に与(あずか)り、ともに捧げるミサの意義が体験できるようになりました。
また規則ずくめ、儀式化してしまった典礼が、教会共同体の生き生きとした、自発的な賛美の場となるように、多様性と自由な適用の可能性を広げました。
「ミサ典礼書の総則」に適応
共 同 祈 願
共同祈願について私たちの教会は昨年9月から、通常は選ばれた先唱者の一人が、洗礼盤側・内陣下の「解説台」から、会衆に向かって意向を告げるように改めました。
それまでは長い間、意向ごとに4人が会衆席から正面に向かって告げていましたが,「ローマ・ミサ典礼書の総則」に従って、それにふさわしく適応させたものです。同総則の71番および138番は、次のように説明しています。
「自席から祈願を指導するのは司式司祭の役割である。(中略)告げられる意向は偏りのないもので、よく考えて自由に,簡潔な言葉で作られ,共同体の願いを表明するようにすべきである。意向は朗読台あるいは他のふさわしい場所から会衆に向かって、助祭あるいは先唱者、もしくは朗読者か信徒の一人によって告げられる」。
少し"おさらい"をしますと「共同祈願」すなわち「信者の祈り」は、ミサの中で耳を傾けたみ言葉と説教に答え、洗礼によって自分の祭司職の務めを実行し、すべての人の救いのために祈りを捧げるものです。典礼憲章の第2章「聖体の聖なる秘儀」の53番には「嘆願」という言葉が使われています。
その嘆願の祈りの意向は、通常、次の順序で行われます。
1.聖なる教会のため
2.国政にたずさわる人々と全世界の救いのため
3.種々の困難に悩む人々のため
4.私たちの教会共同体のため
3番目までは主に「聖書と典礼」のパンフレットから引用し、4番目はその主日の当番の先唱者が作った祈願を唱えています。
ただし、堅信、結婚、葬儀など特別な祭儀においては,それらの祭儀にふさわしい意向によって嘆願の祈りを捧げています。
2009年4月 : ご復活 おめでとうございます
主の復活のできごとが、私の人生にとって、まさに決定的な意味をもっていることを悟らせてほしい。
一回限りの私のこの世での命は、パウロが言うように、天地創造の以前からキリストに結ばれたものであり、聖霊によって神のものであると証印を押されています(エフェソ1・3ー4)。
しかし、果たして自分の人生をこのように捉えているでしょうか。いろいろな体験やできごとの中で見せつけられるのは、自分の弱さや惨めさの方が多いのではないでしょうか。
それでも私は最近、信仰とは結局、自分自身がキリストの望んでおられる自分に変えられることを信じることではないか、と思えるようになってきました。
もちろん、百パーセント要望にお答えできないかもしれませんが、精一杯人生を生きるなら、「よくやった」とお褒めのお言葉をいただけるような気がします。いやむしろ、それをひたすら希望して励み続けたい。
福音、つまり真の幸せの知らせは、確かに私の人生の中で具体化するでしょう。そして、福音が次第に浸透し、私の考え方、発想、価値観、さらに生き方をも変えるとき、きっと、すでに主の復活に与っていることになるのではないでしょうか。
『福音は世界中至るところで実を結びつつ、大きく成長しています。あなたがたのところでも、神の恵みである福音を聞き、それをありのままに深く知ったその日から、同じことが実現しています』(コロサイ1・6ー8)。
復活なさった主が、弟子たちに聖霊を与えてくださった(ヨハネ20・20)ということは、とても深い意味があるはずです。つまり、復活後は、確かに聖霊によって、すべてが新しくされるという救いの業が具体化したのです(イザヤ65・7、66・22、黙示録21・1ー8)。
聖霊の力によってこそ、私たちは『キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈いっぱいに達するようになります』(エフェソ4・13)。
人生の歩みの中で出会う一人ひとりも、やはり復活の恵みに与っているので、必ず主の望む姿に変えられるのだと、信頼してかかわれることができるようになるでしょう。
この希望と喜びが私たちのこの世での命を支えるなら、すでに私たちは、主の復活の恵みに生かされていると言えましょう。
『わたしたちは皆、顔の覆(おお)いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです』(2コリント3・18)。
一回限りの私のこの世での命は、パウロが言うように、天地創造の以前からキリストに結ばれたものであり、聖霊によって神のものであると証印を押されています(エフェソ1・3ー4)。
しかし、果たして自分の人生をこのように捉えているでしょうか。いろいろな体験やできごとの中で見せつけられるのは、自分の弱さや惨めさの方が多いのではないでしょうか。
それでも私は最近、信仰とは結局、自分自身がキリストの望んでおられる自分に変えられることを信じることではないか、と思えるようになってきました。
もちろん、百パーセント要望にお答えできないかもしれませんが、精一杯人生を生きるなら、「よくやった」とお褒めのお言葉をいただけるような気がします。いやむしろ、それをひたすら希望して励み続けたい。
福音、つまり真の幸せの知らせは、確かに私の人生の中で具体化するでしょう。そして、福音が次第に浸透し、私の考え方、発想、価値観、さらに生き方をも変えるとき、きっと、すでに主の復活に与っていることになるのではないでしょうか。
『福音は世界中至るところで実を結びつつ、大きく成長しています。あなたがたのところでも、神の恵みである福音を聞き、それをありのままに深く知ったその日から、同じことが実現しています』(コロサイ1・6ー8)。
復活なさった主が、弟子たちに聖霊を与えてくださった(ヨハネ20・20)ということは、とても深い意味があるはずです。つまり、復活後は、確かに聖霊によって、すべてが新しくされるという救いの業が具体化したのです(イザヤ65・7、66・22、黙示録21・1ー8)。
聖霊の力によってこそ、私たちは『キリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈いっぱいに達するようになります』(エフェソ4・13)。
人生の歩みの中で出会う一人ひとりも、やはり復活の恵みに与っているので、必ず主の望む姿に変えられるのだと、信頼してかかわれることができるようになるでしょう。
この希望と喜びが私たちのこの世での命を支えるなら、すでに私たちは、主の復活の恵みに生かされていると言えましょう。
『わたしたちは皆、顔の覆(おお)いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです』(2コリント3・18)。
2009年6月 : 出会う人に、よい知らせを
表題は、ことしの私たち松山教会の宣教目標です。
キリストは11人の弟子たちの前に現れて言われました。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣ベ伝えなさい』。でも皆さん、洗礼を受けたこと、キリスト信者であることを負担に思っている人がおられるのではないでしょうか。私は、信者さんの顔を見ていて、そのように感じることがあります。
義務感だけで教会に行ったり、また教会の活動に参加したり、その ”決まり“を守るのが重荷になっている人がいると思います。どうしてでしょうか。
”信じること“によって自由になるのではなく、逆に自由をますます奪われたと感じているようです。そのような人にとって『福音』の『喜び』はなんでしょうか。自分のグループに時々集まって参加するだけでいいのでしょうか。
父である神に無条件に愛され、赦され、常に見守られている『福音』を信じるなら、何ものにも勝る『喜び』を実感し、そのことが周りの人々に伝わっていくに違いありません。
この『喜び』こそ、主がともに働いておられる ”しるし“ではないでしょうか。
自分を否定的に見たり、人を疑ったり、快楽を求めたりしたとしても、真の喜びが感じられない今の社会においては、生き方をもって「新しい言葉を語る」(心から)ことが出来るように、いつも祈らざるを得ません。
『宣教に行くように』という使命は、マタイによるとガリラヤにおいて、ある山に集まった11人に与えられました。彼らの活動には、どんな制限もありません。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣ベ伝えなさい』…つまりこれは使徒たちに、その範囲が全世界に及ぶキリストの教えを宣べ伝えていく尊い使命が与えられたのです。”使命に生きる“という動機付けが、キリストを信じるようになった人たちには、とても大切なことです。現代日本社会において ”使命“などと言う言葉は死語になりつつあるのかもしれませんが、皆さんはどう思いますか?「私たちの使命」について?…しかし、私たちクリスチャンの生き方には、何らかの方向性、ある目的に向かって生きるという明確な自覚、使命感があるのではないでしょうか。
「福音を告げること』…これがみんなの共通の使命です。
ある人は、このように言っています。「福音とは何か。それは、なにやら抽象的な言葉で救いについて隣人(出会う人)に話しても理解できないと思います」だから私は宣言しました。「あなた自身の日々の生活において、真理とは何か、正義とは何か、愛とは何かを黙想し、実践していくことなのです」と…。日常生活において私たちは、落ち込み、壁にぶつかって悩む隣人を立ち上がらせる意味ある言葉を伝え、共に新しく生きる力を得るための ”手助け“をすることではないでしょうか。
キリストは11人の弟子たちの前に現れて言われました。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣ベ伝えなさい』。でも皆さん、洗礼を受けたこと、キリスト信者であることを負担に思っている人がおられるのではないでしょうか。私は、信者さんの顔を見ていて、そのように感じることがあります。
義務感だけで教会に行ったり、また教会の活動に参加したり、その ”決まり“を守るのが重荷になっている人がいると思います。どうしてでしょうか。
”信じること“によって自由になるのではなく、逆に自由をますます奪われたと感じているようです。そのような人にとって『福音』の『喜び』はなんでしょうか。自分のグループに時々集まって参加するだけでいいのでしょうか。
父である神に無条件に愛され、赦され、常に見守られている『福音』を信じるなら、何ものにも勝る『喜び』を実感し、そのことが周りの人々に伝わっていくに違いありません。
この『喜び』こそ、主がともに働いておられる ”しるし“ではないでしょうか。
自分を否定的に見たり、人を疑ったり、快楽を求めたりしたとしても、真の喜びが感じられない今の社会においては、生き方をもって「新しい言葉を語る」(心から)ことが出来るように、いつも祈らざるを得ません。
『宣教に行くように』という使命は、マタイによるとガリラヤにおいて、ある山に集まった11人に与えられました。彼らの活動には、どんな制限もありません。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣ベ伝えなさい』…つまりこれは使徒たちに、その範囲が全世界に及ぶキリストの教えを宣べ伝えていく尊い使命が与えられたのです。”使命に生きる“という動機付けが、キリストを信じるようになった人たちには、とても大切なことです。現代日本社会において ”使命“などと言う言葉は死語になりつつあるのかもしれませんが、皆さんはどう思いますか?「私たちの使命」について?…しかし、私たちクリスチャンの生き方には、何らかの方向性、ある目的に向かって生きるという明確な自覚、使命感があるのではないでしょうか。
「福音を告げること』…これがみんなの共通の使命です。
ある人は、このように言っています。「福音とは何か。それは、なにやら抽象的な言葉で救いについて隣人(出会う人)に話しても理解できないと思います」だから私は宣言しました。「あなた自身の日々の生活において、真理とは何か、正義とは何か、愛とは何かを黙想し、実践していくことなのです」と…。日常生活において私たちは、落ち込み、壁にぶつかって悩む隣人を立ち上がらせる意味ある言葉を伝え、共に新しく生きる力を得るための ”手助け“をすることではないでしょうか。
2009年8月 :『人に見てもらおうとして善行をしないように注意しなさい』
「どうしてもっと早く話してくれなかったの。知っていたら助けてあげたのに…」。
しかし『天の父は隠れたことを、見ておられます』。
『施(ほどこ)しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない』。
でも人間は、とかくそれと反対のことを日常好んでやっているようです。
良いことをすると、他人から良い評価を受けます。評判が良くなるのです。報酬があるかもしれません。まさに『彼らは既に報いを受けている』のです。
この世で報いを受けたということ。だから、それはそれで終わりです。『さもないと…天の父のもとで報いをいただけないことになる』からです。
天で報われるのは別で、神の前で価値のあることは、右の手でしていることを左の手に知らせないように、そっと行うことだということです。
準備して会議を開いて「よく調べて」それから「よいことをするぞ」という意識は偽善につながるし、この世での評価を受けたい、と欲を引き起こすことになります。良いことをするためには、何の準備も要りません。もちろん、誰の許可も要りません。
呼吸を無意識にしているように、自然に良いことが出来るようになればと願います。真実、『天の父は隠れたところにおられる』。つまり自分と人々の心の奥深くに存在しています。その"レベル"での行動をしたいものです。
人は誰でも周りの人から認めてもらいたいという欲求があります。人に誉めてもらいたいがために、良いことをする場合もあるでしょう。そのこと自体は悪いというわけではありません。しかし、人が見ていれば良いことをするが、見ていなければしないということになると問題でしょう。さらに問題なのは、人に知られさえしなければ、悪いことでも平気でやってしまうという性質です。
愛と正義の行動規範
政界、財界の汚職が発覚すると、世間から強く非難されます。その一方で私たちも、人に知られようが知られまいが、愛と正義のために良いことに奉仕し、悪いことはしないという、きちんとした行動規範が伴わなければ"同じ穴の狢(むじな)"ではないでしょうか。
全く人目を気にせずに、良いことをすることが出来るようになるには、神への信仰が深くなり、すべてなすことは神のためとなることが望ましいことでしょう。私は少しずつでもその段階に近づけるよう祈りたいと思います。
本来は神に仕え、隣人のために奉仕することだから、神が喜ばれるように隣人が助かるならば、それで良いし、それが何よりの報いでしよう。
しかし、自己満足、優越感、他人からの評価と賞賛を求める場合には、それを得ることだけが目的であり、自分勝手なエゴということになります。
残念なことに、このように隠れた傾向は誰でもあると思います。そのような傾きに負けないで、神のみ旨に応えられるように願い求めなければなりません。とにかく素直になりましょう。
施しをするとき…、祈るとき…、断食するとき…、寄付をするとき…「そのほか善行を行うとき、偽善者たちのように、人に見てもらい、誉められようとするのではなく、天の父が見ておられる隠れたところでそれを行うようにと、イエスは私たちに勧めています。
隠れたことを、すべて見ておられる神を信じて、もう一度隠れたところで行う勇気を祈り求めます。
しかし『天の父は隠れたことを、見ておられます』。
『施(ほどこ)しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない』。
でも人間は、とかくそれと反対のことを日常好んでやっているようです。
良いことをすると、他人から良い評価を受けます。評判が良くなるのです。報酬があるかもしれません。まさに『彼らは既に報いを受けている』のです。
この世で報いを受けたということ。だから、それはそれで終わりです。『さもないと…天の父のもとで報いをいただけないことになる』からです。
天で報われるのは別で、神の前で価値のあることは、右の手でしていることを左の手に知らせないように、そっと行うことだということです。
準備して会議を開いて「よく調べて」それから「よいことをするぞ」という意識は偽善につながるし、この世での評価を受けたい、と欲を引き起こすことになります。良いことをするためには、何の準備も要りません。もちろん、誰の許可も要りません。
呼吸を無意識にしているように、自然に良いことが出来るようになればと願います。真実、『天の父は隠れたところにおられる』。つまり自分と人々の心の奥深くに存在しています。その"レベル"での行動をしたいものです。
人は誰でも周りの人から認めてもらいたいという欲求があります。人に誉めてもらいたいがために、良いことをする場合もあるでしょう。そのこと自体は悪いというわけではありません。しかし、人が見ていれば良いことをするが、見ていなければしないということになると問題でしょう。さらに問題なのは、人に知られさえしなければ、悪いことでも平気でやってしまうという性質です。
愛と正義の行動規範
政界、財界の汚職が発覚すると、世間から強く非難されます。その一方で私たちも、人に知られようが知られまいが、愛と正義のために良いことに奉仕し、悪いことはしないという、きちんとした行動規範が伴わなければ"同じ穴の狢(むじな)"ではないでしょうか。
全く人目を気にせずに、良いことをすることが出来るようになるには、神への信仰が深くなり、すべてなすことは神のためとなることが望ましいことでしょう。私は少しずつでもその段階に近づけるよう祈りたいと思います。
本来は神に仕え、隣人のために奉仕することだから、神が喜ばれるように隣人が助かるならば、それで良いし、それが何よりの報いでしよう。
しかし、自己満足、優越感、他人からの評価と賞賛を求める場合には、それを得ることだけが目的であり、自分勝手なエゴということになります。
残念なことに、このように隠れた傾向は誰でもあると思います。そのような傾きに負けないで、神のみ旨に応えられるように願い求めなければなりません。とにかく素直になりましょう。
施しをするとき…、祈るとき…、断食するとき…、寄付をするとき…「そのほか善行を行うとき、偽善者たちのように、人に見てもらい、誉められようとするのではなく、天の父が見ておられる隠れたところでそれを行うようにと、イエスは私たちに勧めています。
隠れたことを、すべて見ておられる神を信じて、もう一度隠れたところで行う勇気を祈り求めます。
2009年10月 : 『主よ、誰のところに行きましょう。
あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。』
あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。』
『主よ!』と、心を弾(はず)ませての信仰告白は、私にとって、もう一度自分の信仰を考え直し、現代の生活に適応させるための、一つの大きな刺激となっています。
このように私たちの信仰が深いものであれば、現代の社会にあるどんな困難にも打ち勝つことが出来ると思います。
現代の一人一人にもっと意味のある、もっと適切な信仰生活を彼らに示さなければなりません。
そしてカトリックの教えを、現代人の心に強く訴えるようなものにしなければなりません。すべてのキリスト信者に、教会生活においてそれぞれ活動の場を持たせることなどです。
ご存じのように現代の教会は、さまざまな点において変わってきております。このことについて司祭からも、修道者からも、一般の信者からも心配の声が聞かれます。
教会は、余りにもめまぐるしく変わり過ぎるのではないか。また、見かけのものが多過ぎるのではないか。このような"変化"は必要なのか?…などです。
しかし教会は、時代とともに生きてゆかねばなりません。もちろん、言うまでもなく、キリスト教の本質や内容は決して変わるものではありません。ただ、言葉とか、習慣、教会の建物などのような外面的な事柄は、それぞれの国や地域によって変わってもよいものなのです。
『主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます』。ペトロの信仰は、直接イエスの人格に向かっているのです。
イエスそのものを見つめ、イエスそのものを信じ切り、イエスそのものに自分のすべてを委ねています。
真に信仰とは、まさにこれなのです。イエスのことばのすべてを納得し、了解する必要もないのです。
例え了解できても、できなくても、イエスに出会い、イエスの人格に心を奪われ、委ね、イエスと人生をともに歩む、それが真実の信仰の姿なのです。しかし、ペトロと同じことばを使っても、私たちの心は果たして強い信仰を持っているのでしょうか。それとも、ただの口先だけの宣言に過ぎないのでしょうか? やはりたびたび、このことばの意義について反省しながら、キリストに対する信仰を新たにし、そして敬虔な心で聖体拝領をしましょう。
信仰は、内容をよく分かり、納得するから信じるのではないのです。原因や目的をいま理解できなくても、神のみ業、み旨であるならば、全面的に神の善意と全能に信頼して、自分のすべてをお任せすることです。
神こそ裏切ることなく、必ずすべてに報いてくださるのですから…。
私たちも感謝の祭儀の中で『主よ、あなたをおいて、誰のところに行きましょう』と唱えます。口先だけでなく、心の底からそう唱え、そのように行いたい。
イエスを信じ、従い続けていくうちに現状をよく見つめ、改めてよくできる点を見つけ出し、不明の点が残ってはいても自分の頭で決めつけないで、すべてをためし、すべてを委ねる謙虚さと、こころのゆとりを持ち続けましょう。
こうして私たちは、外面を見ただけで判断することなく、司祭や信徒の仲間のこころをより深く理解し、その人々の力になってゆけるのではないでしょうか。
このように私たちの信仰が深いものであれば、現代の社会にあるどんな困難にも打ち勝つことが出来ると思います。
現代の一人一人にもっと意味のある、もっと適切な信仰生活を彼らに示さなければなりません。
そしてカトリックの教えを、現代人の心に強く訴えるようなものにしなければなりません。すべてのキリスト信者に、教会生活においてそれぞれ活動の場を持たせることなどです。
ご存じのように現代の教会は、さまざまな点において変わってきております。このことについて司祭からも、修道者からも、一般の信者からも心配の声が聞かれます。
教会は、余りにもめまぐるしく変わり過ぎるのではないか。また、見かけのものが多過ぎるのではないか。このような"変化"は必要なのか?…などです。
しかし教会は、時代とともに生きてゆかねばなりません。もちろん、言うまでもなく、キリスト教の本質や内容は決して変わるものではありません。ただ、言葉とか、習慣、教会の建物などのような外面的な事柄は、それぞれの国や地域によって変わってもよいものなのです。
『主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます』。ペトロの信仰は、直接イエスの人格に向かっているのです。
イエスそのものを見つめ、イエスそのものを信じ切り、イエスそのものに自分のすべてを委ねています。
真に信仰とは、まさにこれなのです。イエスのことばのすべてを納得し、了解する必要もないのです。
例え了解できても、できなくても、イエスに出会い、イエスの人格に心を奪われ、委ね、イエスと人生をともに歩む、それが真実の信仰の姿なのです。しかし、ペトロと同じことばを使っても、私たちの心は果たして強い信仰を持っているのでしょうか。それとも、ただの口先だけの宣言に過ぎないのでしょうか? やはりたびたび、このことばの意義について反省しながら、キリストに対する信仰を新たにし、そして敬虔な心で聖体拝領をしましょう。
信仰は、内容をよく分かり、納得するから信じるのではないのです。原因や目的をいま理解できなくても、神のみ業、み旨であるならば、全面的に神の善意と全能に信頼して、自分のすべてをお任せすることです。
神こそ裏切ることなく、必ずすべてに報いてくださるのですから…。
私たちも感謝の祭儀の中で『主よ、あなたをおいて、誰のところに行きましょう』と唱えます。口先だけでなく、心の底からそう唱え、そのように行いたい。
イエスを信じ、従い続けていくうちに現状をよく見つめ、改めてよくできる点を見つけ出し、不明の点が残ってはいても自分の頭で決めつけないで、すべてをためし、すべてを委ねる謙虚さと、こころのゆとりを持ち続けましょう。
こうして私たちは、外面を見ただけで判断することなく、司祭や信徒の仲間のこころをより深く理解し、その人々の力になってゆけるのではないでしょうか。