2014年1月:信仰表現 今後の課題
典礼憲章に基づく刷新 <7>
典礼憲章に基づく刷新 <7>
クリスマスと新年 おめでとうございます。
今年も松山教会の目標「出会う人に よい知らせを」伝えていくよう励みましょう。
バチカン公会議50周年の大きな節目に、私たちは「信仰年」を歩み、多くの気づきと学びがありました。
公会議以後、典礼は目に見えて大きく変化しましたが、公会議の意図したことが完全に実現したわけではありません。形の刷新が、内容の刷新にまで染み及んでいくように、また典礼が私たちの信仰の生きた表現になり、神の恵みをよりよく伝える〝しるし〟となるように、更なる刷新に努めていかねばなりません。
信仰年の体験を通して、今後の刷新の課題となる点を考えてみましょう。
翻訳から自国の言葉へ……文化的土着
公会議を機に、典礼が自国語で行われるようになりました。そのことを振り返って、言葉一つ一つが分かっても、心に強く訴えるような典礼文の内容とまでは言い切れないように思います。
私たちにとって、たとえば「栄光の賛歌」や「感謝の賛歌」など、どうもピント来ないところがあります。それは典礼文が翻訳で、言葉は日本語になっていても、表現はラテン語的な表現だからではないでしょうか。
信仰表現の仕方は、言い回しもしぐさも過去のヨーロッパの人々が生み出したものの借り物で、それを忠実に翻訳したものを、そのまま表現しようとしているからでしょう。
インカルチュレーション(文化的土着)の課題として、日本人が自分自身の信仰表現の仕方を発見していくよう努めていかねばなりません。
例えば、典礼文について言えば、信仰にも、聖書や教会の伝統にも深く親しんだ人たちが、日本人の心から湧き出てくる神への賛美を自分の言葉で表現しようとします。
こうして賛美の歌が数々生まれてくる中から、日本人の心に深く訴えるような祈りが出来上がるのではないかと思います。
そのためには、日本人の心の琴線に触れるような信仰表現が育っていく土壌づくりが大切です。仮に相手が恋人だとして、愛情を表現するために、他人の言葉やアイデアを借りるよりも、自分の言葉を生み出し、自分のやり方を考え、工夫することでしょう。どうやって愛を伝えるか苦心するだろうと思います。
私たち信者も、神の愛を表現するために典礼や祈りの中で一人一人がもっと工夫することを学び、その雰囲気を育てていかねばなりません。
言葉について言えば、同じように、しるしについても言えるでしょう。しるし(シンボル)は、言葉以上に強く人の心に語りかけます。
神社に例えるなら、木立の中を通り抜け、石段を上り,鳥居をくぐって玉砂利を踏み、鎮守(ちんじゅ)の森に湧き出る水で手を洗い、水を含んで口を清める。これら一連のしるしの中で、神聖なるものと、それに近づくための心の準備が出来たことを感じさせます。
何ら説明がなくとも、言葉以上に強烈に語りかけるものがあます。すべての日本人にピンと来るようなシンボルです。
それに比べ、私たちが典礼で使っているシンボルには、やはり借りて翻訳したようなシンボルが多いことに気づきます。
聖堂の建築様式や装飾、また祭服や聖具もみんなシンボルとしての働きをもっていますが、現在のところ、翻訳など借りものが多く、一般の日本人には理解しにくく、ピンと来る内容に乏しいものを感じます。
しるし(シンボル)とは、直接人の心に訴えるような、沈黙の中に醸(かも)し出す表現です。私たちは現代の日本人、特に若者の心に響くような言葉や信仰表現を発見しなければなりません。
これは宣教の面から考えて、とても重要なことなのです。さらに英知を養い、想像力を豊かに働かせたいものです。
2014年3月:典礼の学び
典礼憲章に基づく刷新 <8>
典礼憲章に基づく刷新 <8>
「みこころ」新年号の、このシリーズでも触れましたように、典礼と日常生活は表裏(おもて・うら)です。 バチカン公会議が「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、教会のあらゆる力が流れ出る泉である」と強調したように、典礼刷新の、形での(外面の)変化を本当に意味あるものにするには、私たちの日常生活から信仰のとらえ方(内面)まで深く関わる問題です。
例えば共同体を重視する典礼として本当に意味深いものにするには、日常から信仰共同体を育てていかねばならないでしょうし、ひいては個人主義的な信仰のとらえ方から、「ともに生きる」信仰に成長していかねばなりません。それが「形の刷新から内容の刷新」という課題なのです。
ですから公会議の意図することを本当に実現していくために、もっと典礼刷新の意味や、典礼そのものについての理解を深めていくことが大切です。
典礼憲章やその後の教会の指針とか、典礼の歴史などについて学ぶことによって形から内容に、もっと近づくことができるでしょう。また意味を深く理解することによって、逆に表面的な形にとらわれずに応用する力も生まれます。
「手だけで聖体拝領すると、罪だ」などと迷信に近いようなことを考えるのは、極端に形にとらわれて、本当の意味を理解していないからなのです。
「学び」ということの、もう一つの側面は、より良い典礼とするための実際的な訓練です。 み言葉と結ばれて音楽を盛り上げるためには歌の練習が必要ですし、侍者も予習・復習が必要です。
今まで何回となく説明して来ましたが、特に重要なのは朗読奉仕者です。神のみ言葉を人々の心の糧となるように、丁寧に、そして分かりやすく、さらには意味深く朗読するために、十分練習する必要があると思います。
典礼憲章は、これらの諸奉仕を「信者の行動的参加」として促し、「誠実な信仰心と秩序をもって果たせるように、行為すなわち動作と姿勢まで考慮されねばならない」と述べています。
機をよくして昨年9月、カトリック中央協議会から「第二バチカン公会議公文書・改定公式訳」が発行されました。司教協議会が9年かけて手掛けた公式訳は、典礼憲章を含む16の公文書がまとめられており、皆さんが改めて学び合える資料として、読み深められるようお勧めします。
最も身近に感じられる「典礼憲章」は、その序文の冒頭で「典礼は、キリストの神秘と真の教会の本性を信者が生き方をもって表わし、他の人々に明らかにするためにきわめて有益である」と、典礼の基本的な教えを述べています。まさに私たち教会の「出会う人に よい知らせを」の目標について学び、実践していくための〝道しるべ〟として役立ててほしいものです。
(以上で「典礼憲章に基づく刷新」の8回にわたるシリーズを終わります)
2014年6月:愛について…
『わたしよりも父や母、息子や娘を愛する人は、わたしにふさわしくない』 これは聖書の言葉です。
これを読むとき、人は何を感じているでしょうか…。ある人はそこに厳しさを、ある人は痛みを、またある人は疑問や矛盾を感じられるかも知れません。
私自身もこの言葉に接するとき、自分の両親兄弟を思い浮かべ、しばし考えます。
この言葉は一見、父母をとるか、キリストをとるかの二者択一を迫るかのように感じますが、実は荘ではないと思います。
もし、どちらかを選ばねばならないと感じるのであれば、そこには『愛する』ことへのあいまいさがあるのではないでしょうか。
新約聖書はもともと、ギリシャ語で書かれたようです。ギリシャ語の『愛する』と言う言葉とその背景にはいろいろな解釈があります。
情熱的な『愛』を示す〝エロス〟は、私たちのよく知るところです。
聖書の中で最も多く使われているのは、精神的な愛を〝アガペ〟(動詞はaga-pao)です。
ちなみに『父や母を愛する』の「愛する」は親子の愛や友情関係を指す”フィ -リア〟が使われています。ある英語の聖書は「父や母をわたしより好む人」 と訳されています。
〝エロス〟も〝フィーリア〟も、愛の一つです。そしてそれはともに素晴ら しいものです。
しかし本来、〝エロス〟も〝フィーリア〟も人間中心、自己中心的な傾きを もつ。
一生懸命に親や子どもを愛していると思いながらも、自分の家庭や身内のこ とだけしか考えられなくなったり、自己満足で終わってしまう危険性が常に伴 います。
このキリストの言葉は〝エロス〟も〝フィーリア〟もそれを通して、キリス トが私たちを愛して〝アガペ〟にまで高められて行くことでしょう。
人間的な思いを基準にした愛を乗り越えてほしいという願いです。
それは〝マイファミリー〟思考の打開かもしれません。それは、私たちの国 をお隣の国々にもっと開いて行くことかもしれません。
このみ言葉の中に私たちは厳しさよりもキリストの切実なる願いと励ましを感じます。
2014年8月:「できること」は何ですか?
この秋開かれる「教区民の集い」(愛媛地区)は、信仰共同体の養成に取り組む実践テーマの一つ「信徒の奉仕職」を掲げ、信徒の皆さんに「私にできること」を問いかけていく企画が準備されているようです。
「今、あなたに『できること』は何ですか?」。
神から与えられた〝タラント〟は、出し惜しみしないで使わなければいけません。たくさん与えられたものも、そうでないものも…。
あなたにできる「それを使って商売をする」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
堅固な信仰と賢明さにおいて優れ、教理も良く知っている人は、要理研究の手伝いをします。かつて職場で経理の仕事を経験した人は、教会の財務委員として奉仕します。手芸の上手な人はバザーの出品作りをします。
何も芸のないという人でも体力があれば、教会の草むしり、そのほか何でもいろんなところに奉仕の場があります。『神の道具』として奉仕することは良いことで、何をしても周りを明るくし、みんなに喜ばれるでしょう。
誰でも何かができる
これとは違うことも考えられます。キリスト教は愛なのですから、愛の実行こそ大切です。
病人を見舞ったり、貧しい人や困っている人に援助の手を差し伸べることです。いや、それもありますが、公害病や薬害などのように社会がつくり出している病気に苦しんでいる人たちのこともあります。
争いを引き起こしたり、人々の貧しさや生活の困難を生み出している社会の仕組みに目を向けることも忘れてはいけません。これと戦うことこそは、本当のキリスト者の姿では…。そういう意見も、もっともなことです。 では、そうしたことのどれもできない人は、どうすればよいのでしょうか。そんな人はいません。誰だって何か一つぐらいはできることがあるはずです。
例えば、長い間寝たきりの病人で、何から何まで全部他人の世話にならなければならない人でも苦しみを神に捧げ、感謝の生活をし、柔和と忍耐で模範となることができます。人のために祈ることも、とても大切なことです。
なるほど…。でもそれさえもできない人が私たちの周りにはいます。自分の状態を苦しむことさえ知らず、自分がどんなに全面的に人の世話になって生きているのか、それすら分からない、そういう人たちもいます。
こういう人たちは、どんな〝商売〟をして、神のために〝タラント〟をもうけているのでしょうか。この問いに答えられなければ、私たちはまだ神を信じているとは言い切れないでしょう。 「存在そのものによって」、と答えることはできますが、この人のもうけた〝タラント〟は幾らか?と計算するでしょうか、私たちは…。
「今、あなたに『できること』は何ですか?」。
神から与えられた〝タラント〟は、出し惜しみしないで使わなければいけません。たくさん与えられたものも、そうでないものも…。
あなたにできる「それを使って商売をする」というのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。
堅固な信仰と賢明さにおいて優れ、教理も良く知っている人は、要理研究の手伝いをします。かつて職場で経理の仕事を経験した人は、教会の財務委員として奉仕します。手芸の上手な人はバザーの出品作りをします。
何も芸のないという人でも体力があれば、教会の草むしり、そのほか何でもいろんなところに奉仕の場があります。『神の道具』として奉仕することは良いことで、何をしても周りを明るくし、みんなに喜ばれるでしょう。
誰でも何かができる
これとは違うことも考えられます。キリスト教は愛なのですから、愛の実行こそ大切です。
病人を見舞ったり、貧しい人や困っている人に援助の手を差し伸べることです。いや、それもありますが、公害病や薬害などのように社会がつくり出している病気に苦しんでいる人たちのこともあります。
争いを引き起こしたり、人々の貧しさや生活の困難を生み出している社会の仕組みに目を向けることも忘れてはいけません。これと戦うことこそは、本当のキリスト者の姿では…。そういう意見も、もっともなことです。 では、そうしたことのどれもできない人は、どうすればよいのでしょうか。そんな人はいません。誰だって何か一つぐらいはできることがあるはずです。
例えば、長い間寝たきりの病人で、何から何まで全部他人の世話にならなければならない人でも苦しみを神に捧げ、感謝の生活をし、柔和と忍耐で模範となることができます。人のために祈ることも、とても大切なことです。
なるほど…。でもそれさえもできない人が私たちの周りにはいます。自分の状態を苦しむことさえ知らず、自分がどんなに全面的に人の世話になって生きているのか、それすら分からない、そういう人たちもいます。
こういう人たちは、どんな〝商売〟をして、神のために〝タラント〟をもうけているのでしょうか。この問いに答えられなければ、私たちはまだ神を信じているとは言い切れないでしょう。 「存在そのものによって」、と答えることはできますが、この人のもうけた〝タラント〟は幾らか?と計算するでしょうか、私たちは…。
2014年11月:キリストに出会う
どこで、どのようにしたら、キリストにお会いできるのでしょうか…。キリストにすべてをかけた私たちにとって、まさに核心に触れる問い掛けです。
自分の信仰体験を振り返ってみますと、多分、受洗して間もない子どもの頃は、どちらかと言えば、いわゆる信者として義務を果たすことに力を注いでいたように思うでしょう。
だから、キリストのイメージは、何か裁判官のように思えたのではないでしょうか。罪を犯さないように絶えず注意をしていたようですが、問題は罪をどのようにとらえていたか、ということです。
福音で明らかなように、いわゆる道徳的な罪、例えば嘘をつく、盗みをする、みだらなことをするなどは、王であるキリストの裁きの対象になっていません。
最後の審判(あるでしょう)、すなわち、この世界が終わり、神の国が完成するとき、すべての人々は、結局、自分を必要としている人に、どのように関わったかだけが問われるのです。
『あなたがたが地上でつなぐことは、すべて天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、すべて天上においても解かれる』(マタイ18・18)。
まさに今、ここで相手とどう関わるのかは、そのまま神の国、すなわち神の前で決定的な意味をもつということです。
罪を犯さないで天国に入るというような狭いとらえ方は、福音書からはできなくなります。
つまり、「罪とは何か」ということを正しく理解しようとするなら、どうしても自分自身の生き方そのものの基本姿勢を変えなければいけなくなります。
自分が満足するような状態にいるとか、自分の思い通りにことが運んでいるとか、いわゆる道徳的にみて立派であるとかいう、すべて自分を中心にした基準でみること自体が問題です。
大切なのは、相手が自分に何を求めているのか、相手のために何が必要なのか、相手が幸せになるにはどうしたらよいのか、相手が真に成長するにはどう関わったらよいのか、すべて相手が中心でなければなりません。
このように、もし具体的な関わりを通して、相手が生かされていくという体験、出来ごとの中にキリストがおられるだけでなく、まさに相手がキリストになるということを、どれだけ実感として受け止めているのでしょうか。
これは結局、私がどのように日々、キリストにめぐり合うことができるかどうかという、信仰の原点からの問いかけと招きによるほかありません。