2013年1月:クリスマスと新年おめでとうございます。ミサは信仰生活の頂点
典礼憲章に基づく刷新 <5>
典礼憲章に基づく刷新 <5>
第2バチカン公会議から50年…。この記念の年に当たり、私たちは今〝信仰年〟を歩んでいます。
公会議はまず典礼の刷新からスタートしたことを、主日の説教や「みこころ」を通じて何回となく伝えてきました。刷新という〝新しい風〟を吹き込んだねらいは何だったのでしょうか。今一度考えてみましょう。
公会議によって典礼が自国の文化に溶け込んだのが大きな特徴です。例えばその聖書朗読が本当に深いところにしみ込むように読まれるのと、何を読んでいるのか意味もつかみにくいほど下手にされるのとでは、大きな違いがでてきます。
また、日常の生活の中で信者同士が深く触れ合い、祈り合い、助け合っている場合と、顔も名前も知らなければ、知り合おうともしていない信者同士の場合にでは、同じ平和のあいさつをしても、その内容は全く違ったものになります。
典礼は私たちの日常生活の実践の積み上げの上に成り立ちます。日常生活が豊かであればあるほど、典礼は豊かになります。生活の裏づけのない典礼はむなしいものです。
同時に典礼は、私たちに日常生活のあるべきところを指し示します。典礼の示すことを生きようとすることによって、私たちの生活はより豊かなものになるはずです。
例えば、パウロがコリントの人々に書いているように、一致のないところでの聖体の分かち合い(ミサ)は、うそです。一致が深ければ深いほど、生活は豊かな意味をもってきます。同時に、本当の一致の意味を教えてくれるのも聖体であって、聖体に与るたびに私たちはより深い一致に招かれ、自分たちの足りなさを感じずにはいられません。そしてさらに、その一致を本当に実現してくれるのも聖体です。なぜならそれは本当にキリストの生命に、共に与ることなのですから…。
このように深い意味を重ねもっている典礼は、信仰生活の頂点であり、泉なのです。
7つの秘跡は有機的に関連
公会議は、ミサ以外の秘跡、典礼についても、共同体の礼拝、キリスト中心、歴史的に見て本来の意味を重視するなどといった原則にのっとって、刷新、改革に取り組みました。
そしてその大部分は公会議後現在までの50年間にほとんど実行されてきました。ここでは、それについていくつかの点に触れてみましょう。
まず洗礼(入信)の秘跡ですが、かつて秘跡は7つあることが強調され、そのためにまるで7つの秘跡が別々に並列的に存在しているかのような印象を与えてきました。
しかし7つの秘跡は別々に並存しているのではなく、互いに有機的に関連し
合っていて、またその重要度も異なります。
言うまでもなく、ご聖体(ミサ)の秘跡こそ、教会共同体の中心であり、信仰生活の中心です。
キリストの死と復活によって与えられた救いの恵みをともに祝い、分かち合い、宣言し、その恵みによって神と兄弟とひとつになることを示す聖体の秘跡(ミサ)は、教会そのものの姿です。
ほかの秘跡は、この聖体の秘跡に関連して、これに向けて理解すべきでしょう。
例えば、洗礼はこの聖体の恵みに預かる共同体への勧誘と言えますし、堅信はその聖体の恵みの完成として、回心の秘跡は洗礼の恵みの更新、聖体における赦しと和解を表すしるしとしてみることができます。
また叙階の秘跡は、この聖体を祝う共同体への奉仕者の役割を与える恵みであり、結婚の秘跡は、神の恵みの中で、人間が愛において一致するという救いの恵み(聖体の秘跡の意味するもの)をかたどり、人間生活の中でそれを実現していく恵みのしるしなのです。
このように見るとき、7つの秘跡は『キリストによる救い』という分けることの出来ないひとつの恵みが、多様な人間生活の状況に応じて現され、与えられるものであることが分かります。
こうした意味で、新しい秘跡の典礼は、洗礼、堅信、初聖体を、『入信の式』と呼んで、一貫した一つの〝プロセス〟と考えられているのです。
2013年3月:聖書 毎日読みましょう
私たちカトリック信者は、毎日ミサのときに聖書を読みます。神の御言葉は、ご自身の命と心の表れであり、人(私たち)に語りかける神の愛そのものです。
この神の愛そのものである御言葉は、ついには人となり、私たちの中に宿るイエスキリストとして現れました。
同じ御言葉は、また人の手にとって書き印され、聖書として私たちに与えられました。今に時代の人にも…。
素直な心をもって、この御言葉に聞き従うことこそ、信仰であり、私たちの命の源、糧でもあります。
聖書を読むことを通して、私たちはこの神の御言葉を聞き、生きた御言葉であるキリストを知ることができます。
預言者エレミヤは『わたしは御言葉を与えられ、それをむさぼり食べた。御言葉はわたしの喜び、心の楽しみ』(エレミヤ15.16)と述べていますが、聖書を読むことの尊さは、ご聖体と比べることができると思います。
『わたしの肉を食べ、血を飲む者は永遠の命をもつ』(ヨハネ6.54)と言われ、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない』(ヨハネ8.51)とも言われています。
毎日聖体拝領するのは、よほど恵まれた人にしかできませんが、毎日聖書を読むことは誰にでも出来、しかも聖体拝領と同じ尊い信仰の糧なのです。
「典礼憲章」は『キリストはご自身の言葉によって、信者の内に現存される』と前置きして、御言葉の祭儀を『神の言葉の食卓』と呼び、いけにえの食卓(聖体拝領)との対比関連を表していますが、典礼における御言葉の朗読は、聖体拝領と同じく、私たちとキリストを結びつける重要な糧なのです。
聖書朗読に当たっては、聖体拝領に近づくのと同じ敬虔さ、熱心さで言葉の一言一句をも逃さずに味わいたいものです。そのために、御言葉の朗読の後には(ちょうど聖体拝聴の後のように)沈黙して味わう時間がほしいものです。
一方、朗読する人は、聖体を捧げる姿勢のように、尊いものを取り扱っていることを忘れず、聞く人の心に神の御言葉が本当に伝わり、沁み込んでいくように読んでほしいものです。
そのためには、前もって良く準備しておくことが不可欠です。当番になっている朗読奉仕者は、教会受付に用意してある次の主日の「聖書と典礼」をもらって、朗読箇所を繰り返し読み深め、下段の〝叙説〟にも目を通しておくようお勧めします(皆さんが主日にいつも手にされている「聖書と典礼」の最後のページには、毎日のミサで使われる「今週の聖書朗読」が紹介されています)。
私たちが準備するごミサは、きめ細かく丁寧過ぎるぐらいに、きちんと整える習慣を身につけましょう。それが生き生きとして「共に喜びが体験し合える典礼」「人々の心の琴線に触れるような典礼」を生み出すことに結びついていくのです。
2013年5月:ミサと秘跡 教会共同体としての責任
典礼憲章に基づく刷新 <6>
典礼憲章に基づく刷新 <6>
シリーズで取り組んでいるこの企画は、「みこころ」の1月号に続いて"7つの秘跡〟が教会共同体の中で深く結びついていることに思いを深めながら、その意味を考えてみましょう。
典礼憲章は、6世紀ごろまで行われていた洗礼志願者の制度を復活して、3段階の式を設け、それによって入信の〝プロセス〟における教会共同体の責任を重視しています。
幼児洗礼の場合、親に信仰の自信がないと、洗礼を授けないというほど、親の責任を強調し、それを式の中でも明確に示しています。
また、なるべく共同体全体のミサ(例えば主日のミサ)の中で、洗礼式を行うように勧めて、洗礼が共同体全体に関わる秘跡であることを表そうとしている、などの点が注目されます。
特に重要なポイントは、洗礼志願者の制度で、入門式、洗礼志願者の式、洗礼式と、段階的に教会共同体の中に入り、信者の交わりに加えられていくようにつながりを持たせながら、同時にその期間における共同体の役割を強調している点です。
それで、以前のように、洗礼を受けるまで大部分の信者は顔も知らないとか、大祝日の前日にごく少数の信者だけが参加して洗礼が行われ、信者全体には広く知られていない、などといったことがないように配慮されました。
この新しい入信式の意味を本当に生かすためには求道者が教会に迎えられる最初の時点から、信者のグループが積極的に働きかけて共同体に迎え入れ、求道者の教育の期間を通して共に歩んでいくものでなかれば、単なる形式の変化に終わってしまうでしょう。
新しい入信式は宣教する共同体としての存在を、前提としているからです。
回心の秘跡は教会全体の行為
それでは回心の秘跡について考えてみましょう。
新しい式は、この秘跡についても「共同体全体の回心の行為」であることを強調しています。
現代の個人主義の影響を受けている私たちは、ともすると、罪や赦しや回心を「わたしと神」との個人的な関係として考えがちですが、聖書的な、あるいはキリスト教的な考え方はそれらを、もっと共同のものとして取り組みます。
つまり、罪は共同体全体を傷つけるものであり、だからこそ共同体とも和解なしで罪の赦しはありません。ですから初代教会の信者たちは、共同体全体に公に罪を告白して、赦しを願いました。
また主の祈りの中で「わたしの罪を…」ではなく、「われらの罪を赦し給え」と祈りますが、個人個人の責任ではなくても、共同体全体の罪というものもあります。
新しい回心式は、個人的な赦しの秘跡と共に共同回心式の形式をも取り入れ、少しでも共同体全体の和解と回心を意識させ、同時に人類全体の回心と和解のために祈り続ける教会の使命を思い起こすのです。
秘跡は、たとえ個人的に行っていてもそれ自体教会共同体の行為であることを忘れてはならないのです。
2013年7月:道徳の救い
「救いの福音」と言われても、私たちにはピンとこないことが多いのではないでしょうか。救いと言うと、宗教的なことが分かる人でなければ深くは考えません。
しかし、道徳と言いますと、どんなに宗教的な人も、また軽視する人でも、正しく守らなければならない無神論的時代には、道徳だけが人間にとってとても大事なことと考えられるのではないでしょうか。
そうだとすれば、キリストの救いというのは、人間の道徳に関してどんなことをもたらしたのかという点も明らかにしなければ、救いに意味があるのかどうか分かりません。
さて、福音によりますと、キリストは道徳に対しても決定的な救いをもたらしたことが分かります。つまり、キリストは『新しい掟を与える』といっているからです。
では、その新しさはどこにあるのか、本当に新しいのか、その問いに対する答えは、次の言葉に決定的に述べられています。
『わたしがあなたがたを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ15.12)。倫理学的に言ってこの掟の新しさは、全く徹底しています。と言うのは、掟というのが、もう冷たい、形式となることなどあり得ないものだからです。
つまり、愛の掟と言っても、この愛が抽象的、観念的な考え方によって規定できない内容を持つものとなったからです。
それは『わたしがあなたたちを愛したように』と言う言葉によって単なる愛の観念ではなく、イエスキリストというお方とその限りない愛が表されているからです。
今までのように道徳の掟を自分の頭で考えて、自分なりに実践して自己満足に陥ったり、自己義認をしたり、形どおりの守り方だけするような、非人格的な道徳的行為は、もう、道徳とは言えなくなったのです。
キリストの救いは、私たちの非人格化されやすい道徳、すなわち、道徳主義の代わりに本当はわれわれ自身、心のどこかで求めている真の道徳、つまり神との人格的交わりとしての道徳を可能にしたことにあります。
ただし、このような道徳は、キリストとの一致による新しい命に生きるときにのみ実現されるのです。そのためにまず、われわれの命そのものが新しくされなければなりません。
2013年9月:平和(?)
『あなたかたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うか。そうではない。言っておくが,分裂だ』。
イエスは『平和をもたらす人は幸いである』(マタイ5.9) と言い、弟子たちを派遣される際には、どこかの家に入ったら『この家に平和があるように』(ルカ10.5)というあいさつをするよう勧めています。また復活したのち弟子たちと再会したときには同じ言葉であいさつしました(ヨハネ19.20.21.26)。
しかし、イエスの言う『平和はこの世で言う平和とは違います(ヨハネ14.17)。
平和を守るためと言って,「敵」と定めた人々とその周辺の市民、その高松教区の信者さん、女性と子どもをいじめたり、国民の自由(信者の自由)を奪ったりすることは、イエスの言う『平和』ではないようです。
また『平和』を乱さないために、政治家、教会の管理者は、会社の不正、教会の不正を隠したり抵抗したりしないこともイエスの言う『平和』ではありません。
逆に、抵抗、告発によって分裂が起きたとしても、そこからイエスの言う『偽りのない平和』が生まれるはずです。
身近なところから、私たち松山教会の信者の皆さんは偽りのない『平和』を実現する人になるために勇気を祈り求めます。
不正のあるとき、人々が差別され、不利な立場に追い込まれているときは、キリスト信者として対立するしかないでしょう。
これは政治家に対しても、教会の上司に対しても言えることです。教会内、家庭内でも、そうであるように求められているに違いありません。
対立することを恐れない勇気を求めながら、対立のための対立にならないことです。相手自身を否定してしまう分裂で終わらないように、対話と理解を続ける光を祈り求めなければなりません。教皇フランシスコもつい最近、これと同じようなことを伝えています。
『地上に火を投げ入れるために、わたしは来た』とイエスは言われます。私たちが、そのことにどれだけ真剣に正面から向き合おうとしているのかを問いただす言葉に聞こえます。あなたは逃げてはいませんか…?避けてはいませんか…?と。
人間同士がいくら利益や人情でつながっていても、それが神の望みにかなっていなければ、真理である神の言葉はそれを見抜きます。
2013年11月:感謝を捧げましょう
祈りは信仰の〝呼吸〟と言われますが、私たちの日常の祈りの内容を振り返えると、信仰の姿を知る手がかりになるかもしれません。
日本人が一般に「祈り」という言葉を使うとき、考えることはどんなことでしょうか。商売繁盛、無病息災、家内安全…。
どれもよく口にされる言葉ですが、内容は結局、自分中心の願いごとで、私の役に立ってくれる、つまり利用価値の高い神様ほど「霊験(れいげん)あらたかなありがたい神様」と言われ、自分の思うように動いてくれないと「神も仏もあるものか」ということになります。
その点、キリスト教の祈りは根本的に違います。祈りの中心は、いつも「私の願い」ではなく「神のみ旨」が行われることで、どんな切実な願いの後にも『わたしの願いではなく、御心(みこころ)のままに行ってください』(ルカ22.42)と加えられます。
マリア様の祈りも同じで、『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』(ルカ1.38)と、神の意思への完全な従順が示されています。
この従順は、奴隷のように畏れおののいて従う従順ではなく、私たちを愛し、その善のためにすべてをはからってくださる父への信頼から生まれてくるものなのです。
ひとことで言うなら、この父への徹底した信頼こそ、キリスト教信仰の中心とも言えるもので、それは私たちの世界観、人生観、価値観のすべてを変えてしまうような信頼に基づくものなのです。
『父は、あなたがたが願う前から、必要なものを知っておられる』(マタイ6.8)という信頼が祈りの土台になります。
どんな祈りも、この信頼に支えられていないと、キリストの示される祈りとはかけ離れてくるでしょう。
信頼から生まれる祈りの典型は、賛美と感謝の祈りです。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます(マタイ11.25)と、キリストとともに父をたたえ、『絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』(1テサロニケ5.16)と、いつも感謝に生きる姿は、真(まこと)の信仰の姿です。
まず私たちの受けた恵みの一つ一つに心から感謝を捧げることから祈りが始まります。
『神を賛美するために帰ってきたのは、この1人だけなのか』